―どこにも行かない、お前のそばにいる―

その言葉を、本当は、待っていたんだ。

本当は、その言葉が、欲しかったんだ。

多分・・・。






strings






その頃、わたしは、小さくて、独りで、一日生きるだけで精一杯で
明日のことなど考えたことはなく、でも、死ぬことを考えることもなく
ただ、息をし、食べ、歩いていた、少しでもあたたかい場所へと。

その街はいつも曇っていて、今にも雨が降り出しそうな厚い雲が低く低く垂れ込めていて
見上げるとため息が降りてきそうで、それでいて、どこか優しかった。

許されていると感じた。

何を?

ただ、生きてゆくことを。

残されて、ひとりで、生きてゆくことを。

ただ、歩いてゆくだけの人生を。



そして、出会った。






「何してるの?」

小さな子供だった。

こんな汚い街に似合わない、綺麗な顔。

美しい目。

裏路地のゴミバケツのフタを開けていた。

服は泥が染込んでいて、細い手足は剥き出しになっていて
それもやはり泥に汚れていた。

折れてしまいそうに細くて、それなのに
その手足はまっすぐに白く伸びて、光を放っているように見えた。

「ひとりなの?」

こちらを見た。

「おナカ空いてるの?」

こくりと首を縦に振る。

「おいでよ、ごはん食べさせてあげる」

バケツのフタをその場に落とし、子供は近づいてきた。

「だめだよ、野良猫やカラスがゴミを散らかすだろう。
 フタは閉めておいで」

こっくりと、また、首を振って、子供はフタを閉めるために後ろを振り返る。

素直でいい子だ。

「ちゃんと閉めた?・・・よし、じゃ、行こうか」

手を差し出すと、汚れた手の平を、やっぱり汚れた服でごしごしと拭いて、繋いできた。

冷たくて、小さな手だった。

握ると、トクンと、心臓の音が聞こえた気がした。






その男は、綺麗だった。

綺麗な黒い髪。

白くて汚れていない皮膚。

きちんとした服を着ている。

靴も履いている。

差し出す手の、爪も、綺麗だった。

肉の薄い手の平は、優しくはなかったけれど
わたしを見る目は、感情の映っていない黒い目だったけれど
手を繋いだ。

一回だけの食物、それだけは、わたしは、得ることができるだろう。

次はなくとも。

次には、殺されるかもしれなくても。

そういう目を持っていた。



何もないよ。

期待しちゃだめだよ。

そう言っていた。

俺は、何も持っていないよ。



―わたしだって、何も持っていない。









「おいしい?」

黙々と目の前の食べ物を口に入れる子供を見ながら、クロロは言った。

無言で、こくこくと頷いて、クラピカは食事を続ける。

「たくさんあるから、いっぱいお食べ」

頬杖をついたクロロは、心なしか楽しそうだった。

「・・・ありがとう」

口の中のものを飲み込んで、クラピカは、小さく言った。
そして、また、口一杯に食べ物を頬張る。

「いい子だね、ちゃんとお礼も言えるんだ」

クロロは目を細めた。

「食べないの?」

クラピカはごくんと口の中の食べ物を飲み込むと、クロロに話しかけた。

「俺は、お腹空いてないからね」

「・・・もう、おなか一杯だ。ごちそうさま」

「そう?じゃ、おフロに入りなよ。食べたばっかりだけどさ」

「おフロ?」

「うん、寝る前にキレイにしないと、そのままじゃベッドの中に入れられないからね」

クラピカは自分の体を見た。

「お腹一杯になったら眠くなるのは分かるけど、おフロだけは入ってもらうよ」

クロロは、微笑みながら言った。

「・・・うん、おフロ入る」

「着替えは俺のを使ってもらうね。こっちだよ」

クロロは、クラピカを風呂場に案内する。

「お風呂の入り方は分かるね」

「分かる」

「じゃ、入っといで」

パタンと、風呂場のドアが閉まった。



裸になったクラピカは、脱衣所の大きな鏡に自分の体を映してみた。

薄汚れた体。

肋骨が浮き上がる胸。肩も腰も骨張っていて、少しも女らしくない体。



こんな体が、好みなのか?

それとも、わたしを男だと思っているのか?



体を包み込む温かいお湯に、クラピカは全身の力を抜く。

湯船の中に、細い体が、ふわりと浮く。

目を閉じて、ため息をついた。

心地良い。

ただ、気持ち良かった。

なみなみと張られたお湯が、失われた何かの象徴だった。



昔のできごと。

昔、体験したこと。

豊かな時。



思い出せるのは、在ったということ。

知っているということ。

そんなことが、あったということ。



だから・・・何?



クラピカは、真っ白な四角い石鹸に、手を伸ばした。






「入ってきた」

ドアを開けると、クロロはソファに横になっていた。

「ああ、そう・・・じゃ、もうお休み。寝室はあっち」

寝転がったまま、クロロはひとつのドアを指差した。

「ゆっくりお休み」

クロロは、クラピカの方を見ずに言った。

「・・・おやすみなさい」



あなたはどうするの?

そこで寝るの?

一緒に寝るのではないの?



おやすみと言ったものの、クラピカはその場から動けず
手を体の前でぎゅっと握り締めていた。

「ああ、心配しないで、俺はここで寝るから。それがいいでしょ」

クロロは、動かないクラピカに、顔を向けて言った。

クラピカは黙って頷く。

「じゃあ、安心しておやすみ」

クロロは言った。






理由なんて、ない。

口に出したことが全て。

思ったことが全て。

考えることなどない。



綺麗な子供を拾った。

ごはんを食べさせた。

風呂に入れた。

ベッドを貸した。

それだけ。



明日はどうする?

明日のことなど。

シュミレーションなど、意味はない。



犯してしまうかも、とか、殺してしまうかも、とか。

考えても意味はない。



何も残らないのだから。

自分の中にも、誰の中にも。



ただ、起こって、消えてゆくだけ。






―気持ち悪いな、考えてる、俺・・・。

クロロは、少しだけ眉をしかめて、すぐに眠りについた。



お休み、綺麗な子供―。





13.5.2002



end.



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